連作〈青い正方形〉全8点
Series paintings〈Blue squares〉
すべて297mm×210mm
ミニマル・アート。
連作〈青い正方形〉全8点
Series paintings〈Blue squares〉
すべて297mm×210mm
ミニマル・アート。
《黒猫》
210mm×297mm
猫?
地下鉄は万人に開かれた芸術のプラットホームとして最適の場所かもしれない。というわけで、日比谷線に乗って六本木・森アーツセンターギャラリーにて開催中のキース・ヘリング展へ。
まず入口。奥の螺旋階段を登ってからチケット売場に行くわけだが既に面白い。外の景色を見ながら行くも良し。これから同じ作品を見に行く他人の楽しげな会話を小耳に挟むも良し。期待を膨らませるに十分な時間がここで確保される。国立西洋美術館の19世紀ホールに設けられたスロープのような趣がある。
写真撮影が許可されていたので、写真とともに印象的な作品をご紹介。
《無題(サブウェイ・ドローイング)》1981-83年
彼はニューヨークの地下鉄駅の広告板に空きがあれば絵を描いた。黒い紙にチョークで描いた作品群はコミカルで、ポップで、手早く描かれたインスタントなものだった。自分のアートを誰にでも見てもらえるようにするため、彼は誰もが利用するこの公共空間を選んだのだ。展示室内はニューヨーク市営地下鉄内の雑音が流れており、すぐ隣で描き終えたヘリングが立っているような感覚さえした。
《南アフリカ解放》1985年
アパルトヘイトに対する批判が欧米をはじめ世界中で盛んになった頃、ヘリングもまた自分なりのやり方でこれを支持した。
《沈黙は死》1989年
ナチスの強制収容所では同性愛者はピンクの逆三角形のバッジをつけられ識別・管理されていた。その逆三角形を反転させ、同性愛差別に対する反抗を主張した。
上2つのようなポスターは、地下鉄同様誰もが目にすることができる媒体として好んで用いられた。そしてそれは単なるコミカルでポップな絵ではない。社会への強い主張を孕んでいた。
彼自身以上のような言葉を遺している。
《イコンズ》1990年
キース・ヘリング晩年の作品。特に中央のラディアント・ベイビー。
世紀末のニューヨーク。新たな文化の発信地。HIV・エイズに対する偏見や社会の中の暴力や不平等に芸術を以て対抗してきたが、1990年、自身もエイズによる合併症によりこの世を去った。社会の善も悪も見つめてきたヘリングが人類の未来と希望を託したのは、この幼い赤子だった。
そう知った上で乗る帰りの日比谷線。託された希望は叶えられているだろうか。私はそう考えながら、地下鉄の雑音の一部に、文化と未来の一当事者になっていた。
《自画像》
297mm×210mm
2本の線だけで自己を表現できるか。
僕はアトリエを半ダースのひまわりの絵で飾ろうと考えている
SOMPO美術館にて開催されたゴッホの作品、それも静物画に注目した企画展に行ってきた。ちなみに以上の写真は《ひまわり》のある展示室に向かう廊下の壁に書かれたものであり、これから《ひまわり》に直面する入場者の期待と興奮を高めてくれている。
扉のすぐそばにフォトスポット。
開館の5分前に到着したが既に来館者の列ができていたのと、入場前に手荷物検査を実施していたのに驚いた。確かに近頃は展示室で物騒なことをする人もいる。ゴッホの作品も過去に攻撃された。
一部の作品の写真撮影とその私的使用が許可されたので、写真とともに感想などを。
フィンセント・ファン・ゴッホ《カーネーションをいけた花瓶》
キャプションによればゴッホが花の静物画を集中的に描いたのはパリに来てからのことだそう。他にも数点あったが、この一枚は透明のカバーがかけられていなかった。つまり、ゴッホの特徴である厚塗りの筆跡を最大限堪能できるということだ。
液晶画面では分からない表面の凹凸を確認できるから、(わざわざ)お金を払って実物を見に行く。異なる角度から作品を見て、細かい光の反射や陰りを楽しむのは行った人だけが享受できる醍醐味だ。
フィンセント・ファン・ゴッホ《アイリス》
さすがに透明のカバーがかけられていた。背景を黄色にしているからかえってアイリスの青ないし紫が際立つ。ゴッホが花の静物画を描いたのは色彩の研究の側面があったと推測される。
これは後述する《ひまわり》のまさに隣に展示されていて、2枚を同時に拝見できるのは結構凄いことなのではないかとも思うのだが、ありがたいのは展示室に長椅子が置いてあったことだ。柔らかい座面に腰掛けて、一時間でも二時間でも《アイリス》と《ひまわり》を堪能できるようになっている。本物の植物よりも描かれた植物の方が、かえって長いこと眺めていられる気がする。
欠かすことなく斜め横からも拝もう。
《フィンセント・ファン・ゴッホ》ひまわり
《アイリス》同様カバーがかけられていたが、立体感は十分に伝わる。花弁が《アイリス》よりも立体的に強調されているように見えた。
この通り。しかしこれはあくまで写真。繰り返し強調するが、異なる角度から作品を見て、細かい光の反射や陰りを楽しむのが足を運ぶ醍醐味の一つ。
この展示室には他の画家のヒマワリの絵もあった。本作を背景に据えて別のモチーフを描いたもの、要は画中画として《ひまわり》が描かれたものもあった。太陽の花としてヒマワリを芸術と結びつける認識が本作以後、ゴッホ以外の画家にも浸透したのだろう。あるいは本作を死後再評価する動きがまさにそこにあったのだろう。そういうゴッホの影響力を感じる展示だった。普通に一枚展示しただけでは気づけない点だ。
良い体験をした。生きているうちにファン・ゴッホ美術館にも行きたい。静物画にとどまらず彼の色鮮やかな筆跡は今でも人の心を動かす。
過ごしやすい良い季節に上野の国立西洋美術館へ。100点以上の作品と資料が集うキュビスムの企画展。
もはや私の中でおなじみになってしまったこの外観。
本展示では一部を除き作品の撮影が許可されたが、個人利用に限るためここに掲載はしない。代わりに購入したポストカードとともに個人的な感想を残す。
ロベール・ドローネー《パリ市》
まず想像より大きい。画面で見る限りは作品のサイズ感がどうしても分からない。目にした瞬間の圧倒される感覚に、足を運んで作品を見に行く価値があると思う。
勉強不足でドローネーという画家の存在すら知らなかったし、同時主義という表現方法もこのとき初めて知ったが、この絵は面白い。古典的な題材である三美神と思われる裸婦と、近代を象徴するエッフェル塔が同じ画面に存在する。二項対立を画面に表現しつつもどこか二項の調和を感じさせる。個人的に本企画展で一番学びを得られた一枚。
彼は「ピュリスム」を提唱したためこれをキュビスム的な作品とは見做さない解釈が正しいのかもしれないが、印象的なのは作風ではなく彼が選んだモチーフ。
キャプションによれば、パイプや本、ワインボトル、食器などの日用品、ギターやヴァイオリンなどの楽器に限定される。それらは年月の中で改良され、合理的で機能的な形に洗練された、機能美をまとったオブジェと見なされたそう。無論ワインボトルなどは遥か昔から静物画で描かれたが、彼がそういう理由づけをしてモチーフを選ぶところが、いかにも機能重視の彼らしいというか。彼が設計した美術館の中で彼の哲学に包まれながら、その哲学を絵によって再確認する経験ができた。
キュビスム以前・以後の作品も合わせて展示され、20世紀初頭のたった数年の間にこれほどの芸術運動、美の追求が行われていたのかと思うと、もはや美術史に速度さえ感じられる。
良い思いをした。やや強引な形で締めくくるが、単調な日常には飽きてしまうから、たまにはどこかに出かけつつ多視点的に日々を見直して、自分の生活も再解釈してみようかと思う。